20130419

東京最古の鋼鉄トラス橋、南高橋は元両国橋?!(中央区 新川)



この間友だちと東銀座のサルバトーレクォモでお茶することになった時、自転車で行ったし待ち合わせまで時間があったので、ちょっとお散歩。

この間の運河めぐりクルーズでガイドさんが熱く語ってくださった、東京で一番古い鉄鋼トラス橋、南高橋を見に行ってみることにしました。

南高橋は、電車でいうなら茅場町、住所でいうと中央区の新川と湊を繋いでいる橋。

ボートで下はくぐりましたけど、自転車で渡ってみようと思って。以前佃に住んでて水道橋まで自転車通勤してたのでよく通っていた場所なんですけど、南高橋は渡ったことがないと思うんですよね。

新川のあたりって行止りがある気がして、決まった道しか通らなかったからなのかも。


今日の地図です。



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地図を見るとわかる通り、このあたりは東を隅田川、北を日本橋川、そして西と南を亀島川に切り取られた島になっていて、今も「霊岸島」という名前の信号が残されています。

そして、永代橋をはじめとするこの島に架かる橋のうちのひとつが、今回行って来た南高橋です。





新川のオフィスビル横の隅田川テラスを抜け、中央大橋の下のガードをくぐったら、すぐに着きました。

実際来てみたけど、やっぱり渡ったことはないみたい。
ただこうして見ても、なんの変哲もない橋にも見えますね。




でもこの橋、車が通れる道路橋として利用されている鋼鉄トラス橋としては東京で一番古い橋なのだそう。

そして一番古いなんてことよりも驚きなのは、なんと元々は両国橋だったということです。

両国からお引越しして来たリサイクル橋。
一体どういうことなんでしょう。




橋の湊側に看板(こういうのなんて言うんですか?歴史看板?!)があったので起こしてみますがつまり、

「関東大震災で橋作るお金足りなくなっちゃったので、両国橋の壊れてないところ使ってやったぜ~。」

ってことみたいなんです。
すぎちゃんじゃありませんよ。


中央区民文化財 南高橋
【所在地 新川二丁目 湊一丁目(亀島川)】

創架年代は、昭和六年(1931)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(1923)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前掘一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。

東京市は、多くの橋を架橋したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて架設したのです。

都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東国移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民夕景文化財に登録されています。

平成十四年三月
中央区教育委員会


なんという大胆発想というか、ある袖ならなんでも振っちゃおう!みたいな、日本独自のものだという【MOTTAINAI】精神はこの時代からこんな風に発揮されていたのかもって思うと余計に感慨深いなーと思うんですが、

「三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて」

ってどういうことなんだろう?とふと思い、古い両国橋の写真を探してみました。




はっ!似てる・・・。
っていや、これそのものなんでしたね。

そして三連トラスの中央部分っていうのは、あの真ん中の部分がわたしが見て渡って来た南高橋ってことなんですよね。なんてすごい!

しかも、この写真の一番手前の橋柱の上の飾りと、真ん中にある橋の名前が書いてあるっぽい看板、




同じものなんじゃないでしょうか?!

もうこれを胸熱と言わずして何を胸熱と言うのかと。
すごい街です、お江戸東京。




昔両国橋だった頃の写真を見ると、リヤカーだったり人力車なんかが渡っているようですが、そんな乗り物が渡っていた時代から、震災に遭って両手を繋いでいた友と別れ、今はたった一人で引越しまでして今も生き、電気自動車が渡って行くのを眺めている橋。

こんなに地味な橋ですが、壮大というかなんというか。
なんだかどこからか、大きなのっぽの古時計の音が聞こえてきそうな気がしました。




そして、もう1つの看板(?)に引用されていた文章にあったこのあたりの昔の風景がすてきだったので、ここでひとつ。


「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけて明月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆洲大島行の汽船二三艘泛(うか)びたり。波止場の上には月を見て打ち語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船にはに浪花節をかたる船頭の声す。(昭和9年7月・永井荷風 断腸亭日乗より)」


大島行きの船、大岡越前や遠山の金さんに島流しのお裁きをもらった流人は、江戸時代隅田川の一番下流にあった永代橋から八丈島に行ったとかって聞いたことあります。

浪花節をかたる船頭っていうのは、大阪から家康に連れて来られたという佃島の漁師さんでしょうか。

石川島は佃島の隣りで今は繋がっているってことっぽいんですが、




「そういえば!」と思い出して、この間行った中川船番所資料館にあった江戸時代の地図を見てみましたけど、石川島はやっぱり見当たりませんでした。永代橋の西側の島はたぶん霊岸島だろうし。ざんねーん。

でも、大きな隅田川と小さな運河が入り組み、開けた東京湾には小島が幾つかあって、夜も忙しそうな工場に明かりが灯り、夜の水面に映る明月を揺らすように船が通っていく、そんな風光明媚な場所だったんだろうなと思いました。



それにしても、両国橋。
どうやってここまで運んで来たんでしょうね。


じゃ、またです!


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